weissenborn を入手するまで

WEISSENBORNというマニアックなギターをこれまた日本では全く無名のFlorian Chateauというルシアーにオーダーするという人柱的な一部始終です。多くの方に読んでもらうブログではありません。たまに過去記事に加筆修正します。コメントはどなたでもお気軽に!

WEISSENBORNの歴史 その2

1926年

  ハーマンの息子が亡くなる。

  代わりに Rudolph Dopyeraが期間限定で雇われる。

  ちなみに彼は1930年にthe National Dobro Coへ戻ります。

 

  工房では4つのスタイルのスチールギターのほか、並行して4つのスタイルのスパニッシュギターが作られ、少数だがウクレレマンドリンもあった。おそらくバイオリンも作っていた(日の目は見なかった)と思われる。

1914年から続いていたCharles S. DeLanoへのkonaギターの製作も1930年まで続けらた。

 

1930年 ハワイアン音楽ブームの終焉でスチールギターの販売・製造量がぐっと落ち込む。

 

社の歴史の中でレアなものもある。

1916−1922年 ソリッドスクエアーネックのワイゼンボーンが作られている

1926年−30年代 ティアードロップモデルも作られている。

 

1930年までにハーマンとコンセプシオンの2人は離婚しないものの別居しはじめる。

1935年

ハーマンは以前から不満を漏らしていた工房を移転。多額の借金を抱える。

1937年

ハーマンが73歳でこの世を去った。 

1940年

コンセプシオンがハーマンのビジネスの後継者で当時87歳のAlbert Kolbの看護人となる。

1961年 

コンセプシオンが71歳で亡くなる。

 

もう一回だけ続く。