weissenborn を入手するまで

WEISSENBORNというマニアックなギターをこれまた日本では全く無名のFlorian Chateauというルシアーにオーダーするという人柱的な一部始終です。多くの方に読んでもらうブログではありません。たまに過去記事に加筆修正します。コメントはどなたでもお気軽に!

WEISSENBORNの歴史 その1

作成開始まであと1週間位あるので、ワイゼンボーンの歴史を日本語で意訳していきます。

もとにするのはこのページこのページ

 

 おなじみハーマン・ワイゼンボーンさん

量産に入る前のギターにはこのラベルが貼られたそう。

(なんか私的にはモンティーパイソンに出てくる写真みたいで。笑)

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1863年6月30日

ハーマンワイゼンボーンこと Karl Hermann Heinrich Weissenbornは

ドイツにうまれる。

  30代には楽器製造、リペアでハノーバー市の人名録(住所 

  録?)に名前があったそうです。

1902年

アメリカ ニューヨークに渡る。

1910年

ピアノリペアマンとしてロサンゼルスに移る。

1912年 

短期間のパートナーシップ契約を結んでバイオリン製造に乗り出します。

1914年 

ハーマンはスチールギターを作り始めまたこの年に将来結婚することになるメキシコ移民のConcepcion Ybarraと出会います。

1915年

2人は結婚します。ハーマン52歳、コンセプシオン25歳。

この年から上の写真のラベルをギターに貼るようになったそうです。

この頃からKOAを提供するアルバートとの親交が始まる。

1921年

当時31歳だったハーマンの息子が彼と働くためドイツからロスに移住してきます。

(Blog 主 談:この息子さんってハーマンの奥さんコンセプシオンと同い年なんだ。)

1923年

ハーマンとその息子、そして経理担当とKOAを提供する前述のアルバートの4人でWeissenborn Company, Limitedを設立。この工場で作られたものにあの“H. WEISSENBORN LOS ANGELES, CAL.”という焼印が押されるようになった。

 

21年〜23年サンフランシスコのデパート用に少量のスチール・ギターをイタリアンマドンナ、マウイの名で作成。

(blog主談;Bediazで売ってた”イタリアンマドンナ”ってこれか。納得。)

 

 

続きはまた。